山寺の石段を登り切るとそこは絶景だった

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芭蕉が「蝉の声」を読んだ岩

芭蕉が「蝉の声」を読んだ岩

天台宗の高僧に円仁(第3代天台座主/慈覚大師)がいる。東京の有名どころで言うなら目黒不動尊を創建したとされる人物だ。円仁の出身は下野国で、現在でいえば栃木県、もっと詳しい生地は類推地がいくつかありはっきりとしていない。実は天台座主は円仁までの3代すべてが関東から延暦寺へ上がったお坊さまが続いていた。そのせいでもあるまいが、円仁は、関東から東北にかけて、多くのお寺を開いたと伝わっている。浅草寺のお前立ち(秘仏の方ではない)を彫ったのも円仁だし、その数、関東に209寺、東北に331寺余あるとも言われる。1週間に1寺開いたとしても10年以上かかる計算だ。まぁつまり、伝承のものもかなり含まれる──それほど名の知れ渡ったお坊さまだという証であろう。

松尾芭蕉の像

松尾芭蕉の像

 

円仁が開いた古刹で芭蕉が詠んだ

円仁が開いたお寺の中でも、特に有名な東北地方の4つの寺は四寺廻廊(しじかいろう)と呼ばれ、俳聖・松尾芭蕉も訪れたとして知られる巡礼地となっている。
4寺とは岩手の中尊寺(ちゅうそんじ)と毛越寺(もうつうじ)、宮城の瑞巌寺(ずいがんじ)、山形の立石寺(りっしゃくじ)を指す。いずれもそれだけで有名な古刹ではあるが、今回は私が先日参拝した立石寺について書いてみたいと思う。そう「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」と芭蕉が詠んだお寺のことである。

奥の院までの石段は1015段

ここは立石寺という名よりも、山寺という名の方がよく知られているのではないか。四寺廻廊のあとの3寺は、もう少し足腰が弱っても訪れられるかもしれないが、山寺だけは少しでも早く訪ねたいとずっと思っていた。もしかしたら、もう無理かも…という気持ちも若干あった。何しろ奥の院までの石段は1015段、聞いただけでヘタレの私はしゃがみ込みそうな数字である。それでも奈良・室生寺奥の院までの700段は登れたんだ!と自分を鼓舞しつつ、さぁ出発。

五大堂からの眺め

五大堂からの眺め

絶景、という言葉よりも絶景

登り始めたら、左右にお堂や石仏があちこちにあり、また後ろに広がる遠景もすばらしく、疲れる前に立ち止まってカメラを構え、参拝しを繰り返していたら、せみ塚まで来ていた。ここは芭蕉が句を詠み短冊をこの地に埋めたと伝わる場所である。
それからすぐに、有名な開山堂と納経堂の場所へ。その先の五大堂からの景色はすばらしく、たくさんの人が立ち止まり記念撮影をしていた。ちなみに五大明王を祀っているので五大堂と言う。にしてもこんな場所によくお堂を建てたなぁ、と思いながら向かいを見ると崖の中腹にお堂が見える。あそこまで行けるのかなぁ。

山頂付近のポスト

山頂付近のポスト

ポストから投函したはがきの消印

ポストから投函したはがきの消印

山寺のポストから絵葉書投函

ここから奥の院まではもうすぐで、途中、山寺と縁の深い最上義光の霊屋前に何の変哲もない郵便ポストが立っている。テレビなどでも有名な、毎日郵便局の配達員が石段を昇降してくれる貴重なポストである。私もここから絵葉書を購入して投函してみた。ちょっと昭和っぽい絵柄の消印とともに参拝の翌々日に到着。よい参拝記念となった。
この先には奥の院のほか、いくつかの末寺や大正天皇が行啓された時に休息された建屋が残っている。

右手が金燈籠

右手が金燈籠

巨大な燈籠と最小の三重塔

奥の院の正しい名称は如法堂と言う。円仁が中国で修行中に持ち歩いていたと言われる釈迦如来と多宝如来を本尊とし、隣には5メートルの高さを持つ阿弥陀如来を祀った大仏殿が、正面には香川の金刀比羅宮と同じ金燈籠が立つ。これは、1000年の歴史を持つ山形鋳物の名工が創作したもので、大きさも精緻さも群を抜く。そばにいた白人女性は、お堂や景色には目もくれず、熱心にこの金燈籠の写真を撮りまくっていた。
また、少し下った華蔵院には、日本最小とも言われる三重塔が石洞の中に祀られていた。1519年に完成したものらしいが、このサイズの塔を維持してきたのも大変だっただろう。

最小の三重塔

最小の三重塔

山寺に「不滅の法灯」がある訳

というのも、山寺は戦国時代の例に漏れず武将たちの争いに巻き込まれ一山が戦火にさらされた。この時の復興に尽力したのが最上義光だったのである。
ところで、山寺の根本中堂には「不滅の法灯」が灯されている。「不滅の法灯」は最澄が灯した火を比叡山延暦寺が、消すことなく今も灯し続けている火を指している。860年に延暦寺から山寺にもらい受けていた「不滅の法灯」は、戦国時代の焼き討ちの際消失してしまったのだが、これも最上氏の助成を得て再び分灯を受けることができた。
ところが、なんと今度は延暦寺が織田信長の焼き討ちを受け法灯が消えてしまうのである。これを復活させたのが、山寺に分灯された火だったのだ。余談だが、「不滅の法灯」は、僧侶が朝夕欠かさず菜種油を継ぎ足すことで火が燃え続ける仕組みだ。油が切れれば大変なことになる→油断大敵、の語源となったという説もあるという。

円仁が眠るのはどちら?

一番の景色は納経堂の突端だろうが、実はこの下に入定窟がある。比叡山で没したとされる円仁が入定したとされる場所だ。昭和23年から入定窟の学術調査が行われ、金箔押しの木棺と人骨5体分が見つかった。加えて円仁と思われる頭部のみの木彫像があり、平安時代初期の作造と鑑定されている。
これにより、延暦寺の慈覚大師御廟には頭部が納められているのではないかとの推測も出ていた。このような関係があれば、「不滅の法灯」が創建とともに分灯されたのも分かるような気がする。

向かいの胎内堂

向かいの胎内堂

という訳で、山寺への参拝は無事にできた。実は入山した時、目の前に郵便屋さんが石段を登り始めていた。11時の少し前のことである。私は写真を撮りながら、お堂に手を併せながらゆるゆると登って行ったのだが、山頂近くのポストの回収時間を見て驚いた。なんと1日1回の回収時間は午前11時。20分もかからずにここまで登ってきたことになる。私の時計はすでに12時を過ぎている。やっぱり郵便屋さんはすごい。けれどもどうしてこんなところにこんなにたくさんのお堂を建てようと思ったりしたのだろう。
ポストカードを買ったお店のお姉さんに聞いたところ、30年くらい前は向かいの胎内堂や釈迦堂にも登っていけたのだとか。今は危ないからと立ち入り禁止になっているが、そんなところにお堂を建てるのも凄すぎる。何事にも挑戦するのが修行なのか、それともいつでも平常心を保つことが修行なのか。やっぱり昔のお寺へ参拝すると、ちょっと心が素直になる気がするのである。

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