ロンドン橋ならぬ永代橋が落ちた話

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お祭・催事
東都永代橋の図/渓斎英泉・筆(国立国会図書館デジタル化資料より転載)

東都永代橋の図/渓斎英泉・筆(国立国会図書館デジタル化資料より転載)

文化4(1807)年8月19日(新暦9月20日)の午前10時、隅田川にかかる永代橋が落ち、1500人とも2000人とも言われる死者・行方不明者を出した。原因は、この日祭礼が予定されていた深川八幡宮(富岡八幡宮)へ向かう人たちがあまりに多くてその重さに耐えかねた橋が、中央付近で崩落、前が見えない混雑の中後ろから押される群衆たちが前へ前へと進められ、次々に隅田川へ転落していった。

現在の永代橋

現在の永代橋

江戸を代表する景勝地でもあった

この事故の被害が拡大した要因はいくつかあり、この祭りが12年ぶりのものであったことに加え雨天のため順延開催だったこと、直前に通行が制限されていたこと、それまでの雨のために隅田川の水量が増えた上濁っていたことなどがあげられている。
永代橋は、元禄11(1698)あるいは翌年、5代将軍・徳川綱吉の50歳の祝賀を記念して架けられたとも言われている。ちょうど建設中だった寛永寺の根本中堂(現在は焼失)の余材を使用したようで、綱吉の治世で盛んに行われていた公共事業のひとつとも言える。架けられた場所は、現在の永代通りに続く場所よりも100メートルほど上流で、隅田川を往来する船の航路の邪魔にならないよう、高架に作られ、幅約6メートル、長さも約200メートルほどもある大橋だった。橋からの眺めは大変よくて富士山や筑波山を眺めることもできたという。江戸の景勝地として知られた永代橋は、4年後、赤穂浪士たちが吉良の首を掲げて渡った橋としても、一層有名になった。

江戸名所深川八幡の社/歌川広重筆(国立国会図書館デジタル化資料より転載)

江戸名所深川八幡の社/歌川広重筆(国立国会図書館デジタル化資料より転載)

12年の禁止の後に復活した祭り

ところが大橋がゆえに、管理が大変で架橋から20年ほどで幕府の財政がまわらなくなり、廃止を検討するも町民たちの存続嘆願により、諸経費を町人たちで負担することで存続の許可が出されていた。有料の橋として100年が過ぎようとしていたころの永代橋に起こった事故だったのである。
深川祭りは、以前開催中に発生していた喧嘩を理由に祭り再開が12年も禁止されていた。これは質素を旨とする松平定信の寛政の改革の最中であったことも中止の理由であったろう。祭りが復活したのは、定信の失脚後であり、すこしずつゆるくなっていく政策の中で江戸の町民たちが息をつき始めた頃だったのだ。

今も永代橋の上をお神輿が渡る

今も永代橋の上をお神輿が渡る

今も残る事故の記録書

雨で順延となった祭りが始まろうとする頃、隅田川を一隻の船が渡っていった。徳川一橋家のお世継ぎ(つまり12代将軍となる家慶か)の御座船だったことから、上から見下ろすのは不敬であると、永代橋の通行が止められた。無事、船が通り過ぎたのち、通行が再開された時には押すな押すなの人だかりとなっていた。重さに耐えかねた橋が崩落したあとも、次々と人たちが切れ目に落ち続けた。落ちた人も、上から次々と落ちてくる人の下敷きになり浮き上がることもできなかったという。隅田川を渡る船が総出で救出作業を行なったが、行方不明のまま葬儀を行なった人も数多くいたという。
現在でも、国立国会図書館で見ることができるが「永代水死」という町役人による書き物が残されていて、水死人と引取人の名前が一人ひとり記されている。死者がどのお寺に埋葬されたかも細かく記録されているのだ。「8月24日、深川 法禅時、海福寺、本所 回向院、法恩寺〜」と何十ページにもわたる記録簿が何十冊も保管されている。

海福寺にある慰霊塔

海福寺にある慰霊塔

無縁仏は海福寺に

この記録を見ると、被害者が江戸全域から集まってきていたことがわかる。当時は住んでいる場所のお寺が、身元保証を含めてすべてを管理していたからだ。芝や目黒、四ツ谷、相州星川の文字も見える。
深川八幡宮の別当寺は永代寺で、江戸名所図会の深川八幡の挿絵には、永代寺が境内に書き込まれ、江戸六地蔵の姿も見える。ところが、崩落事故で亡くなった人の中で引き取り手のなかった(無縁仏)は、近くにあった黄檗宗のお寺・海福寺に埋葬されたのである。
海福寺では、百日忌に供養塔、50回忌に石碑が建てられた。
実はこの海福寺、明治時代に目黒不動尊近くの目黒区に移転している。この時、一緒に供養塔と石碑も移転して現在に至っている。
何も知らなかった当初、私は「永代橋の事故の供養碑がなぜに目黒に?」と思ったものだが、今でもこの供養碑についてはいくつも疑問を持っている。すでに永代寺は明治時代に廃寺となってしまったため、永代寺でどのような供養がなされたのかは不明なのではあるが、本来ならば永代寺で手厚く供養すべきものだったのではないか。
また、深川にはいくつものお寺がありながら、そんなに大寺でもない海福寺で手厚く鎮魂されたのはなぜか。

海福寺門前の説明版

海福寺門前の説明版

海福寺の開基はいんげん和尚

今は目黒のお寺となってしまった海福寺の開基は、万治元(1658)年、隠元隆琦(日本黄檗宗の祖)によるものと言われる。隠元和尚は、明末期の僧で江戸時代初期に渡来した高僧で、京都宇治の萬福寺を創建したことで知られている。黄檗宗は日本に最も遅く入ってきた仏教であるためか、お堂ほかの雰囲気はどことなく唐風に感じる建物が多い気がする。明治43(1910)年に移転した海福寺の趣も少し異国の情緒を感じさせる。山門は、廃寺となってしまった同じく黄檗宗の泰雲寺から移築されたもので、独特の雰囲気を漂わせている。あまり広くない境内に立つ大きな供養塔はひときわ目を引く。
そして、ついでのようで申し訳ないが、本堂脇に武田信玄の館にあったと伝わる「九層の塔」も残っている。なぜ、この地に残っているのか、紹介してある江戸名所図会を読んでも不明である。

現在の深川八幡(富岡八幡宮)

現在の深川八幡(富岡八幡宮)

永代橋のそばから離れた慰霊塔

永代橋崩落事故は、今でも世界最大級の大きな被害の記録なのだという(最近はもっと大きな被害があっても記録されないようだし)。もっとも、多くの被害者は身元を特定でき、自分の菩提寺で弔われているのだろうから、もしかしたら無縁仏が少なかったのかもしれない。その後も使用許可をもらえた永代橋は二度と崩落しなかったし、明治30年には日本初の鉄橋として生まれ変わったりもした。けれども、深川八幡宮(永代寺)が、この事故に対してなんの記録も境内に残していないというのはどうなんだろう。永代寺は廃寺になるし(現在の同名寺は別寺。江戸六地蔵のひとつであるお地蔵さまは行方不明)、海福寺は遠くへ行ってしまうわでは、亡くなった仏さまたちはどこに慰みを見つけるべきなのだろう。
と、そんなことを考えていたら、事故から210年後の2017年、富岡八幡宮でとんでもない事件の歴史を刻んでしまった。聞けば、事件の根幹はすでに3代前から始まっていたとも。海福寺の移転の時に、お宮の境内に慰霊塔でも移譲してもらえば少しは「怨」は鎮まっていたのではないかと思う、お盆明けの今日である。

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