10月13日は日蓮の命日である。日蓮は、鎌倉時代の高僧で日蓮宗の祖であり、なかなか波乱に富んだ人生を送り60歳で没した。(今の我々から)考えてみれば、短い人生であるが、幾度も生命の危機があり、むしろ病死とはいえ、よくぞ寿命をまっとうできたものだという怖いもの知らずの生きざまだった人物である。こんなことを言うと怒られるに違いないが、祖の豪放な生き方ゆえに、後世でその宗派は分派に分派を重ね、正確にはいくつの宗派に別れているかわからないほどの宗派になっているのではないかと思えるほどである。
全国各地から信者の集まる「お会式」
それでも日蓮は、今でも多くの人たちから敬われ、命日の13日には終焉の地である池上本門寺で行われる「お会式」に全国各地各派の人たちが集合し、壮大な大法会が行われる。その華やかさは、江戸時代の浮世絵に江戸の催事の代表格として描かれるほどだ。本来「お会式」とは日蓮の命日に行われる法会だけを指すものではないのだが、やがては「お会式」=池上本門寺の法会を意味するまでとなっている。
何しろ、この催事に合わせて平日にもかかわらず東急池上線では臨時列車が出るほどなのだから(コロナ禍のせいでこの3年ほどはないが)。
生まれた場所も奇跡が集まり
日蓮は現在の千葉県鴨川市の漁村で生まれた。日蓮の弟子・日家が日蓮の生家跡に建立した「誕生寺」というお寺がある。正確には地震と大津波の影響で現地に移転していて、生家と伝わる場所は海の中らしい。近くには天然の鯛が群生する「鯛の浦」という特別天然記念物に指定されている場所があり、日蓮の誕生に由来するとか、この場所が元々の誕生寺の庭であったとか、日蓮にちなんだ伝説が一帯に広がっている。
また、虚空蔵菩薩を本尊として奈良時代に開山した清澄寺に日蓮は入山、得度した。清澄寺は今でも広大な境内を持つ立派な古刹である。
疑問解決のため各宗派へ遊学
その後、日蓮は自分で体験した教えに合う教義を求め、各地各派に遊学を始めた。延暦寺や高野山、三井寺などにも入ったが、最終的に自らの教えを広めることとする。これは、それまでの念仏や禅宗の教義を否定するものであったことから、激しい反発や攻撃にも遭うことになった。そのため、日蓮はせっかく戻った清澄寺を後にし、鎌倉へと活動の場を移すのである。
ところが、日蓮はこの時続いていた大災害の原因を鎌倉幕府が悪法(法然/浄土宗の教え)を信じるためだと幕府に警告、これが元で鎌倉の庵は日蓮を危険視する者たちから襲撃を受け、幕府に逆らったなどとしてやがては伊豆へ流罪の憂き目をみる。
伊豆での布教と伽藍
伊豆に流された日蓮は、伊東沖の岩礁に置き去りにされた(という伝承がある)。この時、日蓮を海から助けかくまった漁師・弥三郎の住居跡に建てられたのが蓮慶寺というお寺となり、30余日かくまっていた岩穴跡にも御岩屋祖師堂が作られている。また、伊東で2年ほどを過ごした日蓮の住居は佛現寺となっているし、ほど近い場所にある佛光寺は日蓮が初めて祈祷し霊験を得た場所に建立されたお寺である。
やがて流罪から放免された日蓮は、病に倒れた母を看病するため、故郷へ向かうのである。
故郷で受けた襲撃で大怪我
日蓮が帰郷するという報を聞いた東条郷(鴨川付近)の地頭は、日蓮を敵視するあまり数百人の手勢を引き連れ日蓮の一団を襲撃、この折弟子や信者が殺害され、日蓮自身も大怪我を負ったが、地頭の落馬などもあり難を逃れた。この場所に命を落とした弟子の名・鏡忍の名を冠した寺を創建、鏡忍寺となった。
鏡忍寺は、生家である誕生寺まで11キロほどの距離に位置している。そして日蓮は母を看取り再び鎌倉へ戻って行った。
鎌倉での奇跡
鎌倉へ戻った日蓮は、蒙古からの威嚇なども含め国難はすべて悪法によるものと変わらず幕府に対して進言を続けた。最初は無視を決め込んでいた幕府も次第に日蓮とその信者たちを危険分子として扱うようになっていく。
とうとう幕府に捕縛された上、密かに斬首が行われることとなってしまう。まさに刀を振り上げた瞬間、江ノ島方向から光の玉が飛び込み刀を折ってしまった。処刑人たちは慄いて逃げ惑い、日蓮はまたも生き延びた。この場所には弟子により龍口寺が作られ、江戸時代に入り堂宇が整えられて立派なお寺となった。
佐渡での生活が人生を変えた
それでも佐渡には流罪となり、2年半ほどをこの地で過ごした。庵を結んだ場所には妙照寺(なんと!1年ほど前に失火により焼失…)が、島へ着岸したとされる場所に本行寺が建てられている。日蓮は生涯で多くの文章を残しているが、特に佐渡にいる間に記したものは多く、研究者の間では佐渡前と後とでは人生や教えが大きく変わったと指摘されている。
実際、赦免後は身延山へ入り、門下以外の者との面接も拒絶、体調を崩して湯治に出かけるまでの8年以上をこの地で暮らした。ここにはもちろん身延山・久遠寺がある。
終焉の地は旅の途中の信徒の家
病気治癒によいとの助言から、日蓮は身延山を降り常陸国の温泉地へ向かったとされる。ところが、途中の武蔵国の信徒・池上宗仲の屋敷で体調が急に悪化し、そのまま没した。 今から740年前の弘安5(1282)年10月13日、現在の池上本門寺の末寺・本行寺の場所でのことである。
池上本門寺と言えば、日蓮宗の大本山であり五重塔や赤い宝塔が美しい。また、紀伊徳川家墓所でもあり著名人の墓所としても知られ、幸田露伴や力道山、初代・松本白鸚などが眠っている。
日蓮の四大法難をまとめると
簡単に日蓮の人生をまとめたが、考えを曲げなかったことで一生命の危険にさらされた人生であったことはお分かりいただけただろう。中でも日蓮の四大法難とされているのが、「伊豆法難」(伊豆への流刑)、「小松原法難」(帰郷の際の襲撃)、「龍ノ口法難」(佐渡へ流刑前の斬首の危機)、「松葉ヶ谷法難」(鎌倉での住処を度々襲撃された)である。特に鎌倉で受けた襲撃は日蓮が説いた「立正安国論」(国難は邪法への信心にある)が幕府・執権北条に拒絶・弾圧されたことによっている。加えて、まさにモンゴル帝国からの襲撃を受けた時代、これもまた邪法のせいであると一生をかけて解き続けた日蓮の信念の強さは並大抵ではない。
一方で、信徒たちの「正しい法を信じる我々がなぜこのような苦しい目に遭うのか」という問いに、日蓮は正しい(と他人が思える)答えができていない。信心は難しい。だが、それによって作造された伽藍や仏像は今でも美しく凛としている。私はやっぱり宗教寄りの着眼は一生かかってもできそうもない、と感じる今日この頃である。
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