文明9(1477)年11月11日、西軍が解体されたことで11年に及んだ応仁の乱が集結するも、この後長く続く戦国時代へのステップに過ぎない通過点と言えるだろう。加えて、関東では応仁の乱より以前にすでに乱世に突入していたので、この時代に生きていた人たちにとっては「何をいまさら…」感たっぷりの集結宣言にすぎなかったに違いない。
日本にとって11月11日は、戦前の日本を支えてきた渋沢栄一を失った喪失感の方が大きいような気がする。彼は本当に日本のために、日本を命がけで支えた人物だった。もし、彼のような人が戦中戦後にいたならば、日本の歴史は、また大きく違っていたように思う。天寿を全うしてのことなので、これ以上の長生きを望むのは老人虐待になるかもしれないのだが。
閥を成さなかった実業家
渋沢栄一を何より尊敬するのは、実業界であれだけ力を持っていながら、自らの資産を大きくすることに主眼を置かなかったことだ。自然と資産は集まってきただろうが、財閥にするわけでもなく、富を余計に蓄えることもなく、日本という国が少しでも西洋からの搾取に耐えられるようにと常に考え奔走しているのだ。今、どこの国の金持ちも、そんな想いは微塵も持っていないだろう。いち実業家でありながら、歴代のアメリカ大統領と会い、経済的な面での折衝を繰り返し、引退後は教育、福祉、医療などの分野に腐心するのである。貯める気になれば、どれくらいの資産を形成できたかわからない、たぶん国が買えるくらいにはなっていたろう。
明治神宮の創建に奔走
渋沢栄一は、江戸時代の天保11(1840)年2月13日(3月16日)に現在の埼玉県深谷市血洗島で生まれた。現在、NHK大河ドラマ「青天を衝け」が放送中なので、各種有名な逸話はご承知の方も多いだろう。
渋沢栄一記念財団によれば、生涯に約500の企業にかかわり、約600の教育機関・社会公共事業に携わったとされている。一人の人間がたった91年の人生でこれほどの足跡を残せるものか。もしかしたら、神さまなのかもしれない。
実際、渋沢栄一は多くの神社仏閣に対して寄進や活動をしている。
有名なところでは、明治天皇を関東で祀りたいという思いから創建された明治神宮である。本当は陵墓を東京に作りたいという希望があったのだが、すでに京都伏見に決められていたため、代わりに奉斎できる場所をとの運動の中心になったのである。内苑と外苑からなる広大な明治神宮は、若者で賑わう表参道から、今が銀杏並木の見頃となる外苑前まで東京を代表する観光スポットにもなっている。
宗教・宗派を問わずに協力
また、以前にも取り上げたが、晩年を過ごした飛鳥山近くにある「七社神社」の氏子となり、社殿の再建にも貢献した。社の扁額の文字は、渋沢栄一の揮毫であり、社近くの一里塚は、すでに都内には2カ所しか残っていないうちの一つで、国史跡に指定される貴重な史跡である。これも渋沢栄一らを中心とした地元の人たちの活動によって、なんとか保存されたものだ。
渋沢栄一が寄付をした、そして寄付集めに尽力した寺社の名前は錚々たるものだ。何しろ、明治維新という嵐だけでなく関東大震災の被害も甚大で、寺社の苦境は相当なものだったのだ。
例えば、高野山、延暦寺、寛永寺、浅草寺、増上寺、善光寺、大覚寺、神苑会、富岡八幡宮、キリスト教・救世軍、朝鮮仏教団etc.あげればキリがない。
故郷の諏訪神社に本堂を寄進
特に、現在は渋沢栄一記念館のある故郷の深谷市にある諏訪神社は特別だったようで、お堂は渋沢栄一寄進のもので帰郷すれば必ず参拝していたという。
また、福島県白河に松平定信を祭神とする「南湖神社」が大正11年に創建されたが、渋沢栄一の尽力によるものである。これは渋沢栄一が松平定信を尊敬していたことから、といわれるが、松平定信が策定した「七分積金」という制度(寛政の改革のひとつで町入用を節約しその節約分の70%を積み立てること)に対するお礼ではないかと思う。何しろ、この「七分積金」、江戸時代には災害時の救済用だったり低利融資の財源だったが、明治維新に際して東京府がすべて接収してしまった。この時、170万両あったと言われるお金は、学校や道路整備に当てられたようだ。明治政府、いや東京府にとっては松平定信にも感謝してもしきれまい。私は、この松平定信の政策のせいで、市場は緊縮し大いに不況になったと思っているが。
政治家にはならないという信念?
渋沢栄一がなぜ政治家にならなかったのかはわからない。実際、立候補していなかった日本初の選挙(納税していた一部の国民によるもの。全人口の1%強しか選挙権はない)で得票しているし、勅選(天皇の選定)で貴族院議員になっているが、翌年には辞任した。その後、大蔵大臣としての入閣を求められるも固辞、この時首相指名されていた井上馨は「渋沢が蔵相でなければ首相を引き受ける自信がない」と首相を断っている。
それでも、長年住んでいた深川福住町には若者たちが勉強したいと集い、経営者や企業幹部が加入する竜門社(現・渋沢栄一記念財団)となった。
富は社会に返還するもの
渋沢栄一は、一部特定の人々が利益を成すことを嫌い、広く国民全体が豊かになる事を希求していたという。「富は社会に返還するもの」という渋沢の言葉を多くの人が聞いている。
また、彼の活動を見ていると、のちに自立できる形での助成をしていることがよくわかる。つまり、困っている人たちにお金を与えるのではなく、将来に渡り生計あるいは活動を維持できる方法を提供しているのである。それは、神社仏閣の活動においても同じで、将来にわたる氏子や檀家を増やすことなどに力を注いでいるのだ。そのための客寄せとして自分自身を利用してきた。今の世の中にこんな人物が存在するのだろうか。
先日、新しくなった五百円硬貨が発行されたが、2024年からは渋沢栄一が描かれた一万円札が登場する。これに対し反発する声があるようだが、かれの人生すべてを知って反発しているのだろうか。人は感謝することを忘れたら終わりである。渋沢をはじめ、日本を国として惨めにならないよう助けてきた先人たちは、恩を忘れなかった。それは、生命やツキ・運をくれた自然や神秘に対しても同様で、人知の及ばぬところへの感謝も忘れなかった。その彼らの財力のおかげで、今の神社仏閣が維持できているとも言える。人は自分の力だけでの成功などないことを、偉人ほどよく知っているのである。悲しいかな、今の神官・僧侶でさえ理解していない人物がいるようだが。
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