島国日本だからこその文化
あの地震から5年が過ぎた。まったく復興の進まない場所の映像などを見ていると5年も経っているとは思えない。東北だけでなく、関東近辺でも未だあちこちで地割れが残ったままだったりするのだから。だが、考えてみたら、地震よりもそのあとの津波の被害の方が大きかったのだ。地震は瞬間的な被害で済むが、津波ははるか昔から人々がホッとした瞬間をついて襲ってくる恐ろしい怪物だった。国の四方を海で囲まれている日本では、何よりも恐ろしい災害だろう。
築地の氏神さまは鎮めの神
地震で起こる津波ほどの被害ではないにしろ、日本は昔から大波に悩まされていたらしい。日本各地に「波除」「浪分」「浪除」などという地名や神社名が残されている。中でも東京築地鎮座する「波除神社」は、築地市場にあって商売の神さまとしても名高い社である。
江戸時代、「明暦の大火」と呼ばれる江戸の大半を焼き払った大火事が起こった。この火事は江戸城の天守閣をも崩落されたのだが、こののち江戸では大幅な都市改造が行われ、武士たちの屋敷のために神社やお寺の敷地が召し上げられた。ひどい話ではあるが、現在の築地本願寺(当時は西本願寺別院)が代替地として与えられたのは、八丁堀の沖。与えられた…といっても海の上である。どうしたかと言えば、当時大阪からやってきたばかりの佃島の人々の手を借りて埋め立てたのである。この時、荒波のために工事は困難を極めたという。そんな時、海の中から光を放つ御神体がみつかり、これを祀ったところ波が収まった、という。これが「波除神社」のはじまりである。もちろん「築地」という名前は、「築き固めた土地」という意味を持つ。
波乱万丈の築地を見守ってきた社
創建の逸話以来、波除、厄除けの神さまとしてこの地の氏神さまは力を発揮してきた。今年、築地市場は豊洲に移転するが、元々市場ができる前には日本で初めてのホテル「築地ホテル館」が建てられていた。華々しく開業したホテルだが、わずか4年で火災で焼けおち、海軍の軍用地となるも、関東大震災で焼け野原となった。その後、築地の復興とともに日本橋から魚河岸がこの場所に移ってくるのである。
そういう意味で「波除神社」は、大きな厄があってもなお、力強く立ち上がるパワーを土地に与え続けてきたとも言える。
今回、豊洲への移転とともに、「波除神社」も分社などをするのかと思っていたら、やはり土地の氏神さま、この地で新しくできる場外市場の守護を続けるのだとか(鈴子のメールの質問にご返信いただきありがとうございました!)。
つきじ獅子祭りで担がれる獅子頭
境内には本社よりも有名な、獅子殿という天井大獅子を祀ったお社がある。3年に一度大祭が行われる「つきじ獅子祭」でお神輿に乗る獅子頭である。こちらの獅子頭には、昇殿すると獅子頭の後ろに回ることができ、頭の耳の下に頭をつけて祈願することができる。それくらい大きな頭なのである。
向かいには「お歯黒獅子」をお祀りした「弁財天社」もあって、広くはない境内だが隅々まで見て歩くとなかなか楽しい。
ちなみに、「干支めぐり」というお守りがあって、「健康・家内安全」「学問・合格祈願」「金運・商売繁盛」「恋愛・良縁祈願」の4つの祈願を表す「玉」を2ついただき、ひとつは神社の境内に、ひとつはお守り袋に入れて持ち帰るという、ちょっと変わったお守りがある。ええ!もちろん!私は黄色の金運をいただいて帰りましたさ!
神社に収めるのは、自分の干支の碑の中。築地だけあって、黄色い玉が多かった。
「左馬」の絵馬や、恵比寿さまだいこくさまの小槌守りのほか、一陽来復、熊手、勝守りや夢叶う守りなどの季節限定のお守りや護符なども用意されている。さすが参拝客が引きもきらない人気の神社である。
佃には小さな祠を持つまた別の「浪除稲荷神社」がある。佃島に住む人が建てた社らしい。
また、仙台にある「浪分神社」は、江戸時代に押し寄せた大津波がこの場所で2つに分かれて引いていったことが名前の由来なのだそうだ。
ハワイのヒロには「ツナミ博物館」がある。日系人が、ツナミの記憶を残しておこうと尽力したミュージアムだ。1960年にチリで起こった地震が引き起こしたツナミは、高さ10メートルを超える大波となってハワイを襲い、日本でも三陸海岸を中心に死者を出すほどの被害となった。沖縄には「津波よけて」と祈る伝統のお祭り「ナーパイ」(縄張り/この縄から先に波は入ってこないで、との祈り)が残されている。
私は、あのあと鹿島神宮でいただいた地震除けのお守りを肌身離さず持ち歩いている。告白すると持ち歩いているお守りは、実はこれだけである。
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