エリザベス女王の葬礼もあり、このところお葬式の話題でメディアは持ちきりである。葬儀とは本来、亡くなった人に対する生者が最後にできるだけのことをして送り出そうという思いから生まれた儀式である。歴史学者によれば、人類と呼べるか不明のネアンダータル人さえも行っていたのではないかと考えられているというから、脳みそが多少ある哺乳類なら、本能的にやってしまう行動なのだろう。そういえば、象や烏などにも仲間同士の死を悼む行動が見られるという動画を見た記憶がある。生きていれば必ず「死」は訪れるものだとしても、やはり身近なところにはなるべく起きてほしくない出来事である。
祟りの歴史を振り返ってみる
それにしても、昨今のマスメディアを見ていて思うのは「死の穢れ」というものに対する無頓着さである。言い換えれば、昔の人は非業の死──つまり天寿を全うした死以外のすべて──を遂げた人たちの恨みを恐れた。ましてや、有名どころで言えば菅原道真、崇徳天皇、早良親王(崇道天皇)、平将門など讒言・策略などによって貶められ、自死あるいは憤死した人たちの怨霊を激しく恐れた。崇徳天皇に至っては没して1000年以上経った今でも鎮魂の儀式が行われているくらいであるし、平将門の首塚は、東京の一等地に安住の地を与えられているほどである。なのに、なぜ現代のマスコミに登場する人たちはそれを恐れないのか。正直、菅原道真を陥れた藤原時平は恐怖を感じていただろうし、道真が没した6年後39歳の若さで病死した。私は密かにストレスに晒されすぎて病気になったのではないかとも思ってはいるが。
この世に残る「思い」の強さ
エリザベス女王のお年でさえ、まだやり切れていないという事柄もあっただろうし、もしかしたら新しい首相になったばかりのこのタイミングというものに悔しさもお感じになっているかもしれない。そう考えれば、この世に「思い」が残っているだろう。ましてや、志も半ば、やるべきことが山積してたこのタイミングで、直接恨みを買った訳でもない輩に暗殺されるなどという非業の死を遂げられた安倍晋三元首相に対し、没したのちまでも讒言・策略を弄するなどしている人たちには畏れはないのだろうか。科学的でない話などはまったく気にしないのでどうでもよいのだろうか。私は、テレビ局や首相官邸、議員会館では不可解な出来事が度々起こる──ということを相当いろんな方面から聞いていたのだが。私は恐ろしくて、今や批判めいたことすら口にするのもイヤである。それは死ねば土に還るだけ、と考えている人だとしてもこの世に残る「怨」まで否定するのは難しいのではないか(だって「怨」を体現するのは生者かもしれないし)。
非業の死はきちんと鎮魂しなければ
そういうわけで、昔の人は亡くなった人の鎮魂のためにたくさんの伽藍を建築した。国庫からの出金もあったし浄財を募ったものもある。
奈良の法隆寺は聖徳太子の鎮魂のため、という説もあるし、若くして亡くなった天武天皇の皇子・草壁皇子のための岡寺などの古刹のほか、織田信長の坐像が本尊となる大徳寺・総見院が豊臣秀吉によって建立されたし、秀吉のために正妻・ねねが創建した高台寺などもある。最も武士の時代になると、自らの権力誇示のための伽藍作りなどもあって、鎮魂とはかけ離れたものとなってしまった感もあるけれども。
「たたり」の始まりの長屋王
「たたり」の日本の最初と考えられているのが、讒言で失脚されられた長屋王である。奈良時代の政治家で天武天皇の孫にあたり、当時権力者であった藤原不比等の力添えもあって若くして政治家として大きな力を得ることとなった。ところが藤原不比等が没した後、朝廷の最高責任者として辣腕を振るったことで不比等の子どもたちから反感を買うこととなり、誣告されたことから一族を含め自害させられるという結果を招いてしまう。
この事件は「長屋王の変」と呼ばれているが、10年もたたないうちに無実の罪だったことが記録されている。というのも、この直後から日本中で天然痘が大流行し、記録によれば日本の全人口の30パーセントが亡くなったほどの国難となった。長屋王の変で中心的役割を果たした不比等の子どもたち4人もこの天然痘により病死、あまりに人がいなくなり朝廷の政務すらまかなえなくなるほどの死者を出している。この時の疫病治癒のために発願されたのが東大寺の大仏さまである。
今も続く? 長屋王の呪い
時代がくだるにつけ、次第に「祟り」や「怨霊」という考えが芽生え始めたのか、早い時代に暗殺された淳仁天皇についての怨霊説は聞かないが、桓武天皇の弟である早良親王については、鎮魂行事と遷都を余儀なくされるほどの「祟り」に悩まされることとなる。奈良・京都には鎮魂のための崇道天皇社、御霊神社、嶋田神社、崇道神社などがあり、今でも東大寺で行われる法会で読み上げられる最初の「御霊」の名前は早良親王である。
現代まで続く鎮魂だが、長屋王についてはこんな話もある。昭和61(1986)年、奈良のデパート建設予定地から大量の木簡が発掘され、長屋王邸跡だということが判明した。約30,000平米の敷地に4万点以上の出土品があり、貴重な遺産であったが、多くは保存されずに「奈良そごう」と「イトーヨーカドー」となった。しかし30年も経たないうちに両店ともに撤退、これを呪いと呼ぶ人もいるらしい(現在も別の店舗が営業中)。
藤原氏の氏寺、苦難の歴史
さて、先週末から奈良の興福寺では120年ぶりとなる修復を控え国宝の「五重塔」が特別公開されている(~10月16日)。興福寺は藤原鎌足の夫人が夫の病気治癒祈願のために創建した山階寺が始まりである。藤原京、平城京と遷都の都度移転の改名をして現地に至っている。つまり藤原氏の氏寺であったものが、藤原不比等の力により国家の大伽藍への変貌したものだ。八角円堂の姿を持つ国宝・北円堂は、不比等の1周忌に長屋王が天皇からの命により建立したお堂でもある。
興福寺は倒壊と焼失を繰り返し、江戸時代には再建できないままとなってしまったお堂もあった。加えて明治維新の神仏分霊による廃仏運動で格段の被害を受けたお寺でもある。今回公開される五重塔も、目障りであるという理由から入札にかけられ15両で落札されたという歴史がある。最終的に火をかけて焼き払おうとしたところを町の人たちの談判でかろうじて焼失をまぬかれた、現在の国宝は1426年頃再建されたものである。長屋王の呪いは果たして解けたのだろうか。
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