武田家の滅亡は誰の得へと続いたのだろう

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高遠城址の桜 偉人
高遠城址の桜
武田勝頼像

武田勝頼像

世界が混沌としていて、呑気に神社仏閣巡りなどしているのが申し訳ない気にもなるが、実は神社仏閣が建立されている場所は、過去の歴史、特に戦いの歴史に由来していることが多い。関東にはいくさにまつわる話をもつ寺社もよくある。戦国武将たちは寺社を陣に構えたし、自らの勢力下に寺社をおくために兵を出したりもした。

そんな中で、日本の勢力図を変えるかもしれないほどの力を持ちながら、あっという間に消滅してしまった甲斐武田家を追いながら、有名な寺社をご紹介してみたい。

勝頼が自刃した場所に残る生害石

勝頼が自刃した場所に残る生害石

歴史的には武田家の系譜は長い

甲斐武田家の祖先は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の先祖・源頼信(河内源氏の祖)につながる。頼信の孫・源義家が源氏の嫡流となり、同孫・義光の曾孫が武田家の初代となる。源頼朝がすでに甲斐守に任官しているので、流れはあったのだろうが、安定的な国として統一できたのは、武田信玄の父・武田信虎の時代だとされる。
信虎は甲斐を統一し、上杉・今川・諏訪など争いの絶えなかった勢力と同盟や和睦を進めたが、結局彼の治世に不満を持った家臣と息子・信玄により、国を追われた。以後、今川義元の元での暮らしと京での奉仕に携わり、信玄よりも長生きした。

武田神社参道入口

武田神社参道入口

居城跡地には信玄を祀る武田神社が

信虎は、居城として甲府に躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)を築く。この城は、信玄、そして次代の勝頼と3代60年ほど本拠地として使われてきた。跡地には武田信玄を祭神にした武田神社が建立され、今に至っている。
武田信玄には父の寵愛を受けたと言われる実弟・武田信繁がいる。信玄が父を追放したのは、信繁の方を後継にするのではないかという疑心もあったためだともされる。信繁は37歳で川中島の合戦の最中没するのだが、信繁の遺した家訓を後世の武士たちが、心得として伝えていたり、学者たちに学の高さを称賛されていたりと、江戸時代に武田武士が高い評価を得た理由のひとつとされている。彼が戦死した場所には、日本一の閻魔さまが鎮座する典厩寺のあることは、以前の稿でご紹介した通りである。

東光寺仏殿

東光寺仏殿

最期の武田氏・諏訪勝頼

武田信玄は、破竹の勢いで版図を拡大していった。有名な上杉謙信との川中島の戦いは、信玄が信濃へと勢力を広げていく中で起きたものだ。駿河・遠江・三河へも侵攻、今川・北条・織田・徳川などとも戦い、まさに全方向への勝利を得ようとした合戦最中に病死した。
信玄は、信玄暗殺を企てたという謀反の罪で、嫡男・武田義信を廃嫡、甲府五山のひとつ東光寺に幽閉した。お陰で、本来ならば、信玄と顔を合わせることもなかったであろう、四男・勝頼が信玄の跡を継ぐのである。

東光寺にある武田義信の墓

東光寺にある武田義信の墓

因縁が続いた東光寺

武田家は、初代・武田信義の時代から、当主となるべきものには必ず「信」の文字の入る名がつけられてきた。というより、「信」の入らない名前自体が珍しいのである。勝頼という名をつけられたこと自体が、武田の本家にいるべき人間でないことの表れでもある。
実際、勝頼の母は、武田信玄によって滅ぼされた諏訪頼重の娘・諏訪御料人であり、誕生から幼年期までの動静については明らかでなく、16歳の時、祖父となる諏訪家の家督を継いでいる。ちなみに、捉えられた諏訪頼重は東光寺で自害したため、東光寺には諏訪頼重と武田義信のお墓がある。のちの時代、織田軍が甲斐攻めを行った際、甲府善光寺に本陣を敷き、東光寺は焼き討ちされた。

景徳院本堂

景徳院本堂

浅間山の噴火が味方の士気に影響

さて、「信」の入らない武田勝頼は、父の死後も戦勝を続けたが、信玄の死により味方の多くが寝返り、長篠の戦いでの敗戦以降、武田勝頼から勝利の神は離れていく。
やがて織田信長は正親町(おおぎまち)天皇から甲斐武田を朝敵とする許可を得て、甲斐攻めが始まった。この時、浅間山が噴火したという。信玄には及ばぬ武田勝頼の人望と火山の噴火は、家臣や味方軍に動揺を与えたらしい。浅間山の噴火は天正10(1582)年2月14日、ここからわずかひと月足らずで、甲斐武田家は滅亡するのである。

高遠の桜がきれいなのは…

高遠の桜がきれいなのは…

見捨てられた大将

防衛のための城を任されていたものは逃亡し、あっという間に織田軍は甲斐に進軍した。各地からの逃亡と敗走の報告を聞いた将兵たちは、大将の勝頼を見捨て逃走する。唯一、最後まで戦ったのは勝頼の異母弟・仁科盛信が籠城した高遠城で、3月2日に玉砕した。
翌日、勝頼は家臣・小山田信茂の居城である岩殿城(現在の大月市にあった城)に向けて脱出を試みるが、小山田が寝返ったことで勝頼は行き場を失くし、天目山にある武田家由縁のお寺・棲雲寺を目指す。ところが3月11日追っ手に追いつかれ、嫡男・信勝、正室ほか全員が自害して果てるしか道はなくなった。ここで甲斐武田家は滅亡するのである。

恵林寺山門

恵林寺山門

武田家由縁のお寺が繋がる塩山市

織田軍は、勝頼亡き後も残党狩りを続け、武田家が庇護していた寺社の多くを焼き払った。まずは諏訪大社、残党が逃げ込んだ恵林寺を包囲し火をかけた。この時家臣を匿った和尚の有名な言葉「心頭を滅却すれば火も自ら涼し」の逸話が生まれた。この言葉は再建された恵林寺の山門に今も掲げられている。
武田勝頼は、嫡男に信勝と名付けている。自害する際、元服をすませていなかった息子に鎧を着せ、元服式を行い家督相続をさせた上で自害したと伝わる。「信」の字の入らない自分の代で武田家が滅亡するわけにはいかないとの思いか。この時使用した鎧は、武田家先祖が開基した向嶽寺の境内にある杉下に埋められていたが、江戸時代になり徳川家康により掘り出され菅田天神社に奉納されたという逸話が残る。

武田家の姫・松姫の墓は八王子・信松院に

武田家の姫・松姫の墓は八王子・信松院に

武田家滅亡のすぐ後に本能寺の変が

最終的に武田家滅亡への引き金を引いたのは武田二十四将のひとりでもあった小山田信茂となるのだが、彼はこの後、織田信長の嫡男・信忠から不忠を責められ処刑されている。そして武田家滅亡から3か月も経たない6月2日に本能寺の変が起き、甲斐は徳川家康の領地となった。同年7月、徳川家康は勝頼たち一族が自害して果てた場所に景徳院を創建、現在は境内に勝頼・信勝・夫人の墓が建てられている。
その後、徳川家康は多くの武田遺臣を匿いやがては重用した。日光東照宮の警備を任されたのは、武田遺臣の流れをくむ一族である。
そして、信忠の婚約者であった武田信玄の娘・松姫は、家康庇護の元、武田遺臣らと共に八王子で暮らし生涯を閉じた。八王子の信松院にて祀られている姫がそばで育てた人物、保科正之は初代・会津藩初代藩主と成長するのである。明治政府と戦い最期まで徳川幕府を守った藩であることは、敢えて言うまでもないだろうが。

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