家康にとっての9月15日とは

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松平信康 祟り
松平信康
西念寺にある服部半蔵のお墓

西念寺にある服部半蔵のお墓

慶長5(1600)年9月15日(旧暦)と言えばなんといっても「関ヶ原の戦い」であろう。たしか中学校の試験にも出てくるような日付だった気がする。これだけでも徳川家康にとっては記憶に残る日だろうが、9月15日はもうひとつ家康にとっての忘れられぬ日なのだ。
それが長男・信康の没した日である。

清瀧寺にある信康のお墓

清瀧寺にある信康のお墓

なぜ長男は処罰されたのか

いや没したどころか、天正7(1579)年9月15日に家康が自らの命令で信康を自刃させたのである。合わせて正室・築山殿も信康が切腹させられる以前に斬首されている。この信康・築山殿の処罰については、今でも各研究者の間でさまざま取り沙汰され、いろんな小説家によって話が起こされているが、今川義元の姪である築山殿、織田信長の長女である徳姫を正室にもった信康という複雑な関係が──とは言っても戦国時代には珍しい系譜とは言えないが──家康の立場では整理しておきたいものだったのか、にしても苦渋の決断だっただろう。関ヶ原の戦いの折、「せがれがいればもっと楽だった」と家康がこぼしたという話が伝わっていて、いくさ上手だった信康に対する思いだったのでは、と囁かれたとも。

若宮八幡宮にある信康の首塚

若宮八幡宮にある信康の首塚

苦渋の対応が半蔵の人生を決めた

信康の切腹の介錯役を任されたのが服部正成(半蔵)だったが、刀を首に当てることができずその場に崩れてしまった。慌てて検死役が介錯を務めるなど、家臣たちにも苦しい命令だったようだ。
家康は信康のために、浜松に清瀧寺を建立、胴はこの寺に首は岡崎の若宮八幡宮に納められた。正確には首は織田信長の元へ改めのため送られたのち岡崎城近くに埋められたが、怪異現象が城内で重なったことから供養塔が建てらた。これが若宮八幡宮となったとされている。
もちろん岡崎にある徳川の菩提寺である大樹寺、遺髪が納められた江浄寺(駿河)などでも供養されている。

西念寺にある松平信康の供養塔

西念寺にある松平信康の供養塔

余生を出家し菩提を弔う

そして信康にはまったく由縁もない江戸にも信康の供養塔が残っている。介錯できなかった服部半蔵はやがて出家し西念と称する。家康と共に江戸入りすると麹町に庵を構え、その地に信康の遺髪を埋めた供養塔を建立、菩提を弔いながら過ごした。家康からはお堂の建立を許されたが、果たせぬまま半蔵は慶長元(1596)年に没し、この地に葬られた。
その後、江戸城の拡張工事に伴い、現地(新宿区若葉)へ移転、お堂も整えられ寺名も半蔵の号にちなんで「西念寺」となる。現在も半蔵によって建てられた慰霊の五輪の塔と自らのお墓は境内に残っている。信康の命日にあたる9月15日は、各地の供養塔にお線香が焚かれるのだろう。

西念寺の門

西念寺の門

半蔵門のそばには忍びが

こういう背景から、西念寺の入り口には葵の門が掲げられている。
皇居の西側、今でも一般人の立ち入りが禁じられている半蔵門から一直線に伸びる甲州街道は、将軍が万が一の危機に陥った時に甲府まで一気に逃げるための道と言われてきた。これを守るのが忍び者で、その頂点が半蔵である。
江戸時代の切り絵図には「四ツ谷御門」より内側が描かれていないので、当時から半蔵門と呼ばれていたかははっきりしないが、甲州街道の両脇の町名は「伊賀町」「忍丁」という名が続く。この奥に西念寺はずっと存在し続けてきた。

新宿・西念寺

新宿・西念寺

信康は怨霊となったのか否か

信康は怨霊となったのか、畏れられてきたのか。将軍の最後の逃げ道に信康の供養塔を置いているところなど、江戸の町を死者で守護してきた徳川家らしい配置といえばらしい。家康が将軍となる目などまったくなかった織田信長の時代に亡くした長男の供養塔が、その後の徳川の舞台となる江戸にあることもまた興味深い。

そしてもうひとつ。
徳川幕府最後の将軍・徳川慶喜は、信康が残した2人の娘につながる血筋である。もちろん、秀忠とも織田信長ともつながってはいるのだが。なんとなく因縁めいてはいないだろうか。

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