秀吉を天下人にした三面大黒天とは?

新サイト「レッツ!お詣り!!」はこちらから
勝運
圓徳院の三面大黒天

圓徳院の三面大黒天

お盆明けのすぐの今日、8月18日(旧暦)は豊臣秀吉の命日である。秀吉を祭神として祀る京都の豊国神社では、新暦で読み替えられた9月18日を命日として例大祭が行われているが、8月18日は太閤忌としても広く知られている。

私のブログでは、秀吉を扱った稿はあまり人気がなく、これは地盤が東京にない偉人だからかとも思うが、一面、織田信長や徳川家康などの偉人に比べて子孫が残っていないという点も大きいのかなぁと思ったりもする。近しく感じる縁者がいないというのは、歴史が長くなればなるほど「縁」に触れたいと思う人が少なくなるのではないか、と。
それでも関西あるいは名古屋あたりでは太閤さまは日本一の出世人であり、大変人気のあるキャラクターなのであろうが。

延暦寺に残る三面大黒天

延暦寺に残る三面大黒天

3仏を1度に拝める仏さまの原型は

さて、三面大黒天というちょっと不思議な仏さまがいる。正面は大黒天、右手に毘沙門天、左手に弁財天が合体した仏像で、日本の仏教界に最初に登場するのは比叡山延暦寺、最澄が彫んだ仏像であると伝わる。大黒天そのものがこの時出現したのである。つまり、大黒天より先に三面大黒天が登場したのであり、最初は3面ともに大黒天と認識されていたのかもしれない。
というのも、延暦寺での正式名称は「三面六臂大黒天」と呼ばれ、元はヒンズー教のシヴァの神さまの別名・マハーカーラが原型と考えられている。ヒンズー教では、神さまが一体化することも多いらしく、ブラフマーとヴィシュヌ(シヴァと合わせて3柱は最高神とされる)の3体が合わさった姿としてマハーカーラを表現することもあったとか。

マハーカーラ

マハーカーラ

延暦寺の台所を支えた大黒さま

こういう背景を学んだ最澄は比叡山で出会った仙人が「大黒天」に違いないと感じ、その姿を写して作造したものが三面大黒天であった。この仙人は延暦寺の僧のため毎日3000人の人々の食糧を約束し、自分を拝するものに福徳と寿命を与えると最澄に誓ったという。
大黒天信仰はここから始まるのだが、特に三面大黒天を信仰したとして知られるのが、豊臣秀吉である。

ねねの道

ねねの道

念持仏は圓徳院の秘仏に

豊臣秀吉は三面大黒天に出世を願い、ついに頂点まで上り詰めた人物として歴史に名を残したが、これにより三面大黒天は出世、そして勝負事にご利益がある神として広く知られることとなる。
秀吉の念持仏とされる三面大黒天は、現在、京都の圓徳院の秘仏として祀られている。圓徳院は秀吉の菩提を弔うため北政所(ねね)が建立したお寺・高台寺の塔頭で、彼女が没するまで居住した場所が没後お堂となった。高台寺と圓徳院の間の道は「ねねの道」という名前で呼ばれていて、昨年石畳がきれいに修復され、風情ある景色はますます人気のスポットとなっている。

怖い雰囲気が残る大黒天

怖い雰囲気が残る大黒天

次第に柔和になっていくお顔

ちなみに、延暦寺の三面大黒天と圓徳院のそれとは、毘沙門天と弁財天の位置が逆になっている。これは秀吉が自ら自分のために仏師に彫らせたものらしいが、この像のレプリカが圓徳院では頒布されている。原寸大のものから手のひらサイズ、そして総金箔のものまで。
また、延暦寺の三面大黒天は精悍(というかちょっとコワモテ)の顔をした大黒天だが、秀吉のものは柔和で、今ではこちらの三面大黒天の方が見慣れたお顔となっている気がする。

英信寺の三面大黒天

英信寺の三面大黒天

三面大黒天の持ち物の違い

さて、関東には空海(弘法大師)作と伝わる三面大黒天が祀られている英信寺というお寺がある。英信寺が霊巌寺を創建した霊巌和尚が寛永8(1631)年に創建したお寺であることを考えると、空海の仏像がどこからやってきたのかちょっと不思議であるが、英信寺は三河時代から徳川と縁の深い松平家由縁のお寺なので由緒ある仏像も遺贈されることもあったかもしれない。
ただし、英信寺の三面大黒天は、配置は延暦寺型ではあるがお顔は秀吉の念持仏に近い幾分ほがらかなものである。延暦寺の大黒さまの持ち物は、宝珠と剣で小槌と袋が加わったのは、時代が下ってからではないかなぁと、私は漠然と思っている(足の下の俵も)。これは神道(オオクニヌシ)と習合してからの姿なのではないだろうか?

鎌倉七福神の大黒天

鎌倉七福神の大黒天

大黒さまのご利益は果てしなく

秀吉は三面大黒天を信心したが、世間では大黒天を大事にしたと考えられてきた。正確に言えば大違いである。三面大黒天には、財宝と武神の神が両脇についており、1度の祈願で3仏の縁が得られるという強力な仏なのである。加えて、秀吉の時代にはダイコクさまはオオクニヌシも習合しているので、考えてみれば4つも5つも(オオクニヌシはいくつもの神々の総合名なのでもっとかも)の神仏を拝んでいたことになる。
何しろ、縁結びのオオクニヌシが習合したため、大黒天は縁結びのご利益まで結びついたのだから。

不忍池辯天堂そばの大黒天堂

不忍池辯天堂そばの大黒天堂

秀吉由縁の大黒さまが上野に鎮座

そして、徳川家康の命により建立された寛永寺の不忍池辯天堂そばには、秀吉由縁と伝わる大黒天が祀られているお堂がある。考えてみれば、2代将軍の徳川秀忠は秀吉の正室・北政所のそばで育った人物で、豊臣家を成敗したのちも北政所とは親しくしていたとも言われている。
そんな秀忠に秀吉由縁の大黒天が渡ってもおかしくないのかもしれない。それがやがて徳川の菩提寺である寛永寺へ奉納された、のかもしれない。

大阪・四天王寺の大黒堂の本尊も三面大黒天

大阪・四天王寺の大黒堂の本尊も三面大黒天

それくらい秀吉と大黒天の逸話は日本中に残っている。そして大黒天はいつしかにこにこ顔になってしまった。
大黒天の縁日は「甲子の日」である。8月はないが9月8日が甲子。不忍池辯天堂の大祭である今年の巳成金は己巳の日となる9月13日。
上野寛永寺の不忍池の2022年9月はなかなか巡り合わない豪華な暦まわりの年となる。

コメント

タイトルとURLをコピーしました