徳川家康が築いた江戸城のパワー

新サイト「レッツ!お詣り!!」はこちらから
風水
江戸城の富士見櫓

江戸城の富士見櫓

正直、安倍首相が暗殺されてからあんまりパワスポの記事を書く気が起こらない。というより、頭を使う業務をする気が起きなくなった。心のどこかで「日本の政治が悪くなりそうだったら最後は安倍首相が出てくるだろう」と、ちょっとタカを括っていた自分がいた気がする。それも、もうない。これから先、いいことが起きる気がしない。政治家(古くは天下人)が暗殺されたことで、いい結果につながったことなど日本の歴史の中で一度もない。その後のマスコミの騒ぎ方を見ていていれば、ますますこの先の未来に希望などなにも持てないことが確実だ。それほど新聞・テレビ・週刊誌の分析(と言えるのか?)は絶望的な有様である。

江戸城大手門

江戸城大手門

もし信長の時代が続けば日本の中心は関西だった?

信長が暗殺された後、秀吉が天下人となったが、結局家康が関東に都を移すまで日本には泰平は訪れなかった。歴史的に見れば織田信長の暗殺によって、政治の中心は関東に移ってしまったのである。徳川家康の領地を江戸に移したのは秀吉、江戸城を居城にと提言したのも秀吉。ここから鎌倉時代以降に取り戻した関西(正確には中部か?)への権力移行は、再び関東へ行ってしまい、以降現在に至るまで政治・経済の中心は江戸(東京)にありつづけることとなる。

現在の半蔵門

現在の半蔵門

江戸城そばまでが海だった

ところで、今も天皇の住まいとなっている「江戸城」の成り立ちとはどんなものだったのだろう。
まず「江戸」という地名についてだが、これは「江の入口」を意味するものとする説が有力だ。平安時代後期頃から、江戸という呼び方が見受けられるようになるのだが、当時は隅田川の河口が浅草付近まで広がっていて、日比谷入江と呼ばれる大きな湾となっていた場所が、現在の皇居以南の土地である。この場所を江の戸(入口)と称していたのではというのである。
やがて、この場所へ勢力を広げた秩父党の一派が、江戸氏を名乗り、湾近くの高台に居城を設けた。

日暮里駅前の太田道灌像

日暮里駅前の太田道灌像

江戸へ移封された家康

そして戦国時代になると、太田道灌が江戸氏の居城付近に築城する。道灌が作った城と江戸氏の城は同じ場所にあったという説と別の場所だったという両方の説もあるが、いずれにせよ、どちらの場所も湾に面した場所だった。つまり、昔は皇居のそばまで海が迫っていたのである。
太田道灌が暗殺されたのち、この城は捨て置かれ荒れ果てていたと言われるが、秀吉はここを家康の居城にしろと言ったのである。朽ち果てた城という話も、そこまでひどくはなかったという説もあるが、いずれにせよ、家康は住み慣れた遠江・駿河などの国を召し上げられ、北条氏の旧領へと移封、新たな城を築かなければならなくなった。

梅の花が咲き誇る皇居東御苑の梅林坂

梅の花が咲き誇る皇居東御苑の梅林坂

家康が埋め立てた江戸の入江

徳川家康が江戸城に入城したのは1590(天正18)年のことで、それからの10年で江戸城を今までとは見違えるような城として誕生させた。
太田道灌の時代の城には、本丸と二ノ丸があったようだが、これに西ノ丸、三ノ丸、吹上、北ノ丸を増設、外堀を作り、江戸城の南側を埋め立てた。
徳川家康が初代将軍だったのは、1603年〜1605年のわずか2年だが、その後秀忠の時代に入ってからも江戸城の拡張工事は続く。秀忠の時代には神田山を切り崩して、入江を完全に埋め立ててしまった。もちろん、これらに掛かる費用の大半は諸大名に負わせたし、石垣などの材料も地方から運ばせている。ちなみに天下普請と呼ばれる築城は、江戸城にとどまらず、伏見や彦根、姫路、駿府など多くの徳川が関係する城の改修なども行われている。

大手門そばに残る百人番所跡

大手門そばに残る百人番所跡

天下普請で大名たちは困窮

そういうわけで、大阪の陣(豊臣家との間の合戦)が始まった頃には、各大名の台所事情はかなり疲弊していたらしい。加えて、家康に意見できる立場であったろう浅野長政、堀尾吉晴、加藤清正、前田利長などが相次いで没し、豊臣家はすっかり孤立していた。でなければ、あのような無理筋な理由(方広寺鐘銘事件)から、戦さへつなげられるはずもない。大事なことは長生きである。大阪の陣のことは脇に置いておこう。

現在の天守閣跡

現在の天守閣跡

明暦の大火で焼け打ちたままの天守閣

そうまでして築城し、天守閣も秀忠の天下普請とその後の家光時代の2度の普請で築かれていたが、明暦の大火(1657年)の際焼失、以降二度と再建されることはなかった。
ちなみに、天守閣は高さは60メートルの日本最大級の、そして真っ白なしっくいの壁だったらしい。焼け落ちた直後は再建も考えられていたらしく、担当した加賀藩によって御影石が瀬戸内から運ばれ、現在も残る天守の土台までは造られた。
ところが、江戸開府から57年、最後の合戦から42年も経った泰平の世に、軍事力の象徴は必要ないだろうとの判断で、人力・財力は町の復興のために利用すべき、との意見が採用されたのである。提言したのは、会津藩主・保科正之(2代将軍・秀忠の四男、家光の弟にあたる)で、父(家光)に可愛がられていた叔父の意見ともなれば将軍・家綱も無下にはできなかったろうが、その後の会津藩の運命を知る我々にとっては、皮肉にも思える。

現在の二の丸庭園

現在の二の丸庭園

二の丸が一番被害にあったのかも

それにしても江戸城は、何度も火災に見舞われている。門だけが焼けた火災を含めると江戸時代に30回を超えた被害に遭っている。中には、出火場所が本丸台所とか二の丸大奥といったものもあるので、お城自体の不注意もあるのだが、明暦の大火だけでなく、小石川馬場火事、行人坂の火事(明和の大火)、車町火事(文化の大火)など江戸城からかなり離れた火元の火事でさえ被害に遭っている。本丸や西の丸、大奥も2度3度焼け落ち、何度も焼け落ちた二の丸は大政奉還の年に最後の焼失、現在は庭園が復元されている。さすが「火事と喧嘩は江戸の花」と言われるほど、江戸の町の火事は珍しいものではなかったということか。

半蔵門

甲州街道につながる半蔵門

天守はなくとも幕府の力を誇示

それでも江戸城は間違いなく、江戸の町の中心になるべく、様々な仕掛けと配置で東京随一のパワースポットとなっている。江戸城守護のため、鬼門・裏鬼門、北辰、四神など、仏教・神道・道教・陰陽道などあらゆる信心を利用して、悪邪を排するように考えられた。現実的な話として、万が一江戸城が敵に攻められた時には、徳川家康は一目散に甲府まで逃げることができるように整えられた道が甲州街道だというから、一面非常に現実的な視点でも築城されていたのだ。
甲州街道沿いには、逃げる家康を守れるような家臣が配置されていたし。

皇居の象徴的な画・二重橋

皇居の象徴的な画・二重橋

連日、マスコミが「政教分離」などと騒ぎ立てて、亡くなった首相をまるで悪人のように罵る様子を見て、毎日思っている。日本の歴史を知らないのかと。いったい、どこで宗教とのよい付き合いと悪い付き合いを分けることができるのか。毎日、テレビで放送してする星占いはオカルトではないのか。神社で引くおみくじは? お宮参りや七五三はよいのか? 会社が初詣に特定の宗教施設に幹部が出向くのは良いのか? 私は知ってる。テレビ局のお偉いさんも、あまり感心しない宗教指導者からいつもお告げを貰っていることを。それを悪いとは言わないけれど、マスコミはどんどん自分たちの首を絞めている。もう、行き着く先は魔女狩りにしかならないのに…。

コメント

タイトルとURLをコピーしました